物隠し

   チャッピーが、見つからない。
   可絵(かえ)の大事な人形を、何処かでなくしてしまった。
   娘が五歳になった誕生日に買ったばかりなのに、わずか三日足らずでどこかに置き忘れた。
   可絵は怒るだろうな。
   誕生日に娘がねだった人形は、驚くほど高価だった。それはウレタン樹脂で作られた四十センチ前後の裸体人形で、半完成品として売られている。自分で好みの髪や服だとかを着せるらしい。
   その着せ替え人形が四、五万円を優に超える。さんざんしぶったあげく、妻にも諭されて僕はその人形を可絵に買ってやった。
   チャッピーは、未だに服を着ていない。靴はおろか、髪の毛すらついていない。白くのっぺりした顔にブルーの瞳だけが半開きでついている。妻はせめて髪の毛だけでも買ってやれと言うが、本体にあれだけお金をかけたのだから次の給料日までは何も買えない。ほとんどの時間は可絵が抱いていたが、ときどきリビングのソファーに膝を抱えて座っていたり、タンスの上から僕たち家族を呆然と眺めていたりした。
   一糸まとわぬ人形は、まるで人体模型。そう感じたが、男親の率直な感想は言わない方がいいと思われた。
   可絵の白い頬が好き。
   水分をたっぷり含んでしっとりしている頬は、どの子どもにもない潤いを常に維持していた。これは紛れもない事実である。小さな可絵は笑うとそのしっとりした頬にこれまた小さなくぼみを作った。
   少し赤みを帯びた長い髪とフリルの洋服を着た五歳の可絵。そんな子が丸裸の人形を抱えて歩く。あまり似つかわしくない組み合わせだけど、チャッピーといるとき、可絵はいつだって機嫌が良かった。
   それなのに、チャッピーをなくしてしまった。
   チャッピーがいないことを気づかれる前に、どうにか見つけようとしたが、結局は夕食の席でばれた。可絵が四人分の箸をテーブルに用意した時点で。
   「チャッピーがいないよ?」
   テーブルについた僕と妻は沈黙した。可絵は明らかに嫌な顔で僕を見た。僕はとっさに嘘をついて、その場を乗り切ろうとした。もう一度じっくり探せば見つかるだろう。それまでの間、なくしたことはごまかしておこう。
   「ほら、よくパパがテレビのリモコンがないって騒ぐだろ? でもしばらくすると目の前に落ちていることがよくあるじゃないか。あれはね、物隠しっていう妖怪のしわざなんだ」
   娘どころか妻も、僕を怪訝そうに見た。
   「その妖怪はとてもいたずら好きで、人間が困るのを見て陰で笑っているんだよ。けど、決して悪い妖怪じゃないから、気が済んだら返してくれる」
   チャッピーがいなくなったのは、物隠しのせい。
   もちろん、そんな妖怪などいるはずがない。見つけられないリモコンが目の前で発見されるのは、事実だけど。
   可絵の様子を伺いながら話したが、気が済んだら返してくれる妖怪の話は少し面白かったらしい。
   「パパが冷蔵庫からマーガリンを取り出せないのも、その妖怪のせい?」
   妻も僕が冗談を言っていることに気づいて、話を合わせた。
   「そうそう。いくら探しても見つからない。そのうち、ママが呆れて自分で探しにくるだろ?   そのときにマーガリンをこっそり戻すんだよ」
   チャッピーがいないことを納得したのか、可絵は笑った。物隠しは単にいたずら好きなだけ。物を隠すけれど盗ったりしない。気が済んだら必ず返してくれる。そう言って僕は物隠しのせいにして、とりあえず時間を稼ぐつもりだった。見つけたらソファーの裏にでも置いて、掃除のときに妻にわざとらしく発見してもらおう。
   案外、可絵は簡単に僕のデタラメ話を信じた。


   そうは言っても時間は限られている。せいぜい三日が限界だろう。
   僕は翌日からチャッピーを入念に探し直すことにした。一番有力なのは、車の中。田舎から帰ってくるときに可絵から預かったのだから、きっと車の中にある。
   僕が仕事で使う作業着や工具、趣味の釣り道具などで凄まじくごちゃごちゃになっているので、物がなくなってもおかしくない。いい機会なので車内整理でもしよう。
   午前中に終わらせるつもりでいたが、肝心の車の鍵がない。前に鍵を落として以来、必ず廊下の指定場所に置いていたはずなのに。妻も知らないと言う。仕方がないのでスペアキーで開けた。
   チャッピーは見つからなかった。
   この日を境に、我が家の物が次々と姿を消した。
   リビングの棚にあったお酒。仕事用の靴と枕元に置いた読みかけの本が見つからない。お気に入りだった横長のパスタ皿もなくなった。
   同時にあれもこれもなくなるのは変だ。まさか本当に物隠しのしわざでもあるまいし。おかしい、おかしいとぶつぶつ言いながら部屋を歩き回る僕に、可絵がどうしたの? と尋ねてくる。
   僕は探し物をしているんだよ、と何気なしに答えた。それに対して可絵は、実に意味深い口調で返事をした。ひどく冷たさを感じる言い方だった。
   きっと、物隠しが隠しちゃったんだよ。
   それを聞いて、僕は可絵を疑った。
   娘のしわざだろうか。
   僕があの時とっさに考えた妖怪の話を利用して、悪ふざけをしている気がした。可絵は素知らぬ顔をしているが、僕はその裏にある嘘を読み取った。恐らく可絵は面白半分に物を隠して僕を困らせたうえで、こっそり戻すつもりなのだ。
   僕はチャッピーの件もあるので、娘の些細ないたずらにあえて騙されたふりをしようと決めた。所詮、子どものいたずらではないか。僕は下手な演技で困った顔をした。案の定、可絵は「気が済んだら返してくれるよ」とお決まりのように言った。
   明日になれば、車の鍵もその辺に転がっているだろう。可絵の気が済めば、物隠しのように返してくれるに違いない。


   そう思ったのは、間違いだった。
   物の紛失は、次第にエスカレートしていく。一時間おきに棚の本が一冊ずつ消え、冷蔵庫の食材や調味料が不自然に減っている。あげくの果てに、電子レンジまでなくなった。動かすはずがない。
   妻は気味悪がって、娘にも何も言えない。僕も限界を超えそうだったが、まだ我慢していた。可絵は日増しに喋らなくなった。そして日増しに物が紛失する。
   僕が可絵のいたずらに勘付いてから七日目の夜、仕事を終えて帰宅した僕は、妻の不在が異常なほど気になった。僕は比較的早い時間帯に帰ってくるので、まだ妻が買い物の途中であったり、友人と何処かに出かけていたりすることはよくある。
   けれども、僕は恐らく直感的に、妻の不在がそうした偶然ではないことを鋭く感じ取っていた。この家全体が、不穏な気体で充満しているようでならない。
   僕は先程、鍵を開けずにこの家に入った。
   それなのに妻がいない。単なる鍵の閉め忘れだろうか。次に僕は可絵の存在を、ある種の恐怖心を持って思い出した。五歳になったばかりの娘をひとり家に残して、妻が外出するなど、到底ありえない。常識的に考えれば、可絵は妻と一緒にいるはず。それでも鍵のかかっていないこの家に、可絵がひとりでいるような気がする。僕はあたかも盗みに入った侵入者のような足取りで廊下を静かに歩いた。自分の家だというのに。
   可絵はリビングにいた。ひとりでいた。
   「ママはどうしたんだい?」
   声が心なしか上擦っている。可絵が次に発する言葉を僕は予想する。ありえない答えを想定しておいたのに、可絵は僕の予想通りの言葉を、予想以上に恐ろしい響きでもって発した。
   きっと、物隠しが隠しちゃったんだよ−−−。
   「いい加減にしろ!」
   僕は可絵を抱え上げて、娘の部屋に駆け込んだ。クローゼットや机の引き出しを乱暴に開閉する。玩具箱もベッドの下も、物を隠せる場所は次から次へと開ける。可絵が集めたお菓子の箱まで開けた。ところが車の鍵も、パスタ皿も見つからない。無論、妻も。
   「どこに隠した?   言いなさい! ママはどこにいるんだ!」
   可絵はしばらく黙っていたが、やがて短く言った。
   「大丈夫だよ、気が済んだら返してくれるんでしょ?」
   可絵は笑ってそう言い、保湿性のある頬に小さなくぼみを拵えた。それがひどく、恐ろしかった。
   非現実的な世界が、極度の信憑性を持って僕を襲う。空想の世界ほど恐ろしいものはないように思えた。
   妻がいなくなった。
   可絵がそれを、物隠しのしわざだと言う。僕がその荒唐無稽な話を認めざるを得ない理由を、可絵は知っている。チャッピーを不注意で紛失したことに、気づいている。そして、僕が苦し紛れに創り上げた物隠しという架空の存在を、自らの手で実在させることで僕を精神的に追い詰めている。
   これは明らかに、仕返しだ。
   いくら大事な人形を紛失されたからといって、五歳の娘がそんな手口で父親に復讐することなど、ありえるのだろうか。僕は理性を取り戻すために、リビングのソファーに腰掛ける。すると、目の前になくなったはずのお酒が転がっていた。
   外国の消火栓を模ったグリーンのガラス瓶。四十七度の松ヤニのお酒。
   気が済んだから物隠しが返してくれたというのか。僕はその存在を手で確かめてから一気に飲みこんだ。
   喉を焼く高濃度のアルコールが、まるで分解されないまま体内に蓄積される。瞬く間に僕は酩酊した。大脳が上下、逆さになったように視界が歪む。深い眠りにつくまで、さほど時間はかからなかった。

   目が覚めると、何もなかった。本当に何もなかった。
   月の光がやけにまぶしい。普段ならカーテンに遮られているのに。
   僕が眠っていたソファーだけがリビングに置かれている。壁時計や洋服ダンス、リビングのテーブル。そればかりか、絨毯すらもない。あらゆる家具という家具がそれまでの思い出と共に、一切合切なくなっていた。
   いや、隠されていた。
   新居に越してきた住人が引越し荷物の到着を待つような構図で、僕はたとえようのない紛失感を味わう。もはや驚愕することすら忘れて、ただ呆然とする僕の前に、可絵がいた。外の月が娘を直に照らしている。
   「きっと、物隠しが隠しちゃったんだよ」
   そう聞こえた。可絵の口は、動いてなんかいないのに。
   五歳になった娘の白くか細い腕の中に、チャッピーがいた。相変わらず丸裸で髪もない。紛失届が出ているはずのその人形は、僕が空想した妖怪なんかよりもよっぽど架空の存在に思えた。一体、何処にあったのだろう。
   娘が抱える人形はずいぶん汚れていて、そのうえ顔に大きな傷ができていた。錆びた金属で引っ掻いたような鈍い傷跡。たとえば、工具なんかでぶつけた傷跡。
   娘は言った。
   うそつき−−−。