紅茶空

   ポンパドウルさんはこう言った。
   「ライ麦トーストを食べるには、NO SMOKINGの席がいい」
   フランス人のポンパドウルさんは、常に紳士的。
   あごの下に生えた白いヒゲ、それもちょびヒゲがとってもダンディーなおじいさん。
   歳は六十をいくつか超えているというのにアクティブで、おまけにグルメな人だった。
   この美食家は、食事時に煙草の煙にまかれるのを嫌った。


   ここは、家出人が集まるホテル。
   宿泊費は、タダ。
   海沿いのさびれたホテルに、家出をした人たちが集まって生活している。
   何故だか知らないけれど。
   年齢層は豊かで、親とケンカをした子どもから旦那の浮気を発見した奥さん、ポンパドウルさんのようなおじいさんまでいる。
   みんな何かに不満があって家を出るのに、たいていは行く場所がないから数日で帰らざるを得ない。
   本当はもっと長く家をでるはずだったのに、なんて思いながら。
   そんな人たちのために、このホテルはあるのだろう。


   僕も家出をしたんだ。
   このホテルに辿り着いたのは、昨日の夜遅く。
   どこか泊まる所を探し回って、ここに行きついた。不思議な事に、自然と足がこの場所に向かっていた。地図もないのに、迷子になることもなく。お金なんてほとんど持っていなかったけど、大丈夫だった。
   だってここは宿泊費がタダだから。
   食事はちゃんと一日三回でるが、みんなで作る。みんなっていうのは、同じくこのホテルに宿泊している人達のこと。
   材料は裏の庭で採れる野菜。木に実ったフルーツ。海で釣った魚。
   そう、ここは海沿いのホテルなんだ。
   ここに来てから一番初めの朝、僕はそのことを知った。あの朝、馬鹿でかいカーテンを開くと、僕の視界は二分された。
   上半分は紺碧の空。下半分も紺碧だけど海だった。
   毎日、そこで釣った魚を焼いたり煮たりして、畑で栽培した野菜も焼いたり煮たりして食べる。
   ただ、肉はない。さすがに牧畜はしていないから。


   隣の部屋に静夏という名の女の子が泊まっている。
   ベッコウ飴の色をしたメガネがよく似合う子で、もちろん、彼女も家出をしている。
   静夏は高校生だった。
   受験生と勝手に名付けられたことにひどく反発していた。
   受験するかどうか、一言も話していなかったのに、と言う。
   消しゴムだけが無駄に減っていく生活に疲れ、家を出たのだと言った。なんだか親近感が湧いて僕たちは仲良くなった。
   静夏は僕を「だいち」と呼び捨てにしたが、僕が「しず」と短く言うと嫌がった。親も静夏のことをたびたびそう呼んだらしい。
   それは納得がいかないらしく、だったら産まれた時に初めから「しず」と名付けるべきだ、と主張する。
   家出をするくらいだから、みんな何かしら不満を持っていたが、中でも静夏は自己主張の激しい子だった。
   そんな静夏と僕の反社会的な生活が世間とはぐれて始まった。
   とうぶんは、ここに居てやる。


   ポンパドウルさんの朝食は、さすがって感じにおしゃれ。お気に入りのライ麦トーストに無塩バターを塗って食べる。
   もちろん、NO SMOKINGの席で。
   僕と静夏は席にお邪魔して、一緒に食べた。
   ポンパドウルさんは紅茶を用意していて、僕たちにも入れてくれた。
   「ダージリンを飲むといい」
   そう言って丸みのあるガラスポットにお湯を注ぐと、その勢いで対流が起こり紅茶の葉が上下に舞った。
   しわくちゃの葉が徐々に手を広げ、しなやかに踊る。紅に色づいてゆくポットの中で、無重力世界を行ったり来たりしていた。
   ポンパドウルさんは、紅茶を入れる際の温度や抽出時間、味の違いなどについて細かく教えてくれた。僕も静夏もそのほとんどが理解できなかったが、ダージリンは本当においしかった。
   静夏は以降、よく紅茶を飲むようになった。ダージリンはとりわけ気に入ったようで、Darjeelingという英語のつづりが好き、だなんて言った。
   ポンパドウルさんは家出をしている割には、ときどき街に戻ってパンや紅茶を買ってくる。何が不満で家出をしているのか、一番わからない人だった。
   けど、そんな姿さえ、おしゃれ。例外って感じがなおさらに。


   かずとくん、という名の犬が家出をした。
   そして、ここに来た。
   かずとくんは静夏が飼っていたブルドッグで、家を抜け出してここにやってきたらしい。静夏の家にどんな不満があるのかは、わからない。
   でもここは、家出人が集まるホテル。動物だって、例外ではない。
   僕は静夏と、かずとくんを連れて海沿いを散歩した。
   海辺には、社会生活に疲れて日常から抜け出した人たちがぽつりぽつりと確認できた。
   スーツ姿のサラリーマンに会い、僕は声をかける。
   「どうして、家出をしたのですか?」
   会社を辞めたんだ。
   そういって彼はネクタイをはずした。サラリーマンの象徴を脱ぎとった姿が何とも印象的で、ひどく疲れて見えた。
   その男の人は、お酒を飲んでいた。
   最後の給料もお酒に変えたと言った。
   「飲まないとやっていけない」
   そんな言葉を使った。
   現実味を帯びたセリフだっただけに、残念に思える。
   休日には、昼間からお酒を飲まないと生きていけない暮らしだと。アルコールを摂取して、脳の抑制から解放されない限り、満足できないのだろうか。
   その化学反応に、幸福やストレス解消のすべてを委ねてしまうのは、哀しいと思った。
   でもそれが単純に、僕たちが生きる世界なんだ。


   だいち、大人になるとみんな働くんだね。
   静夏がそう言った。
   どうして、働くの?
   静夏にかけてあげられる言葉が見つからない。
   僕も静夏も、小さな頃から家や学校で、事あるごとに将来の夢を聞かれた。将来の夢を聞かれて、サラリーマンやOLと答える子どもは少ない。
   聞く大人もそんな答えを望んではいない。
   でも、大人になる一歩手前、今から社会に出ようって頃に、もう一度同じことを聞かれたら。
   たいていの人間は、サラリーマンやOLと答える。あるいは、他に選択肢がない。
   子どもの頃に、僕たちに投げかけられたあの問いは、一体何なのか。
   夢を叶えるという事が、一歩間違えれば社会からドロップアウトしかねない、という現実を学校は教えてくれない。
   そのくせ、将来に夢を描けだなんて、無責任なことを言った。
   静夏も高校三年生になれば、さも当然のように受験生と名付けられた。結果はどうであれ、受験しなくてはいけなかった。
   将来の夢を聞かれ、受験して大学に進み、就職した先にあるのが、海辺でネクタイを外したあのサラリーマンのような気がして、僕たちは失望した。
   そのとんだデキレースに参加するつもりなんて、ないのに。
   働くって。その意味がわかるように、誰かに訳して欲しいね。


   いよいよ秋になった頃に、静夏の妹が家出をした。もちろん、ここにきた。
   忘れちゃいけないのは、みんな個人的に家出をしているってこと。
   妹はもちろん、かずとくんまで別々に部屋を借りた。
   いったん家出をした以上、お互いにあまり干渉はしないようで静夏は専ら僕と一緒にいることが多かった。
   ときどき、現実世界に戻ろうか、なんてことを考える。
   夢を見ていられるのは、せいぜい眠っている間だけなんだと思ってしまう。悲しいけれど。
   みんないつまで、ここにいるのだろう。


   次の日、今度は静夏が家出をした。
   もともと家出をしている立場だったけれど、家出人が集まるホテルから家出をした。
   家に帰ってしまったのだろうか。
   そうだとすれば、現実に戻っていった彼女を連れ戻すのは、乱暴な気がする。できれば、社会にちゃんといたほうがいいって、僕はわかっているから。
   つじつまの合わないことを言うが、僕は静夏を探していた。
   会いたかった。
   他の人と比べて半音くらい低いあの娘の声で、だいちって呼んで欲しかった。
   ホテルを抜け、砂浜を通過すると車道に出た。ガードレールやカーブミラーが当たり前のように設置されていて、ここが現実と夢の境目であるような気がした。
   この道を進んで、僕も現実に戻っていくのか。
   そう考えると、静夏の後を追うことにためらいも感じた。


   気配がして振り返ると、かずとくんがいた。
   かずとくんは僕を迎えに来てくれたらしい。静夏が飼っていたブルドッグ。しわくちゃの顔で、もしくは梅干みたいな顔で僕を見る。
   「お前も、おうちに帰りたいのか?」
   かずとくんは何も言わない。吠えもしなかった。
   ただ、沈んでいく太陽がまぶしくて、目を細めた。
   ゆっくり歩き始めたかずとくんを追って、僕も歩く。ひょっとしたら、静夏がいるかもしれない。もう一度、海沿いに出たけれど静夏はいなかった。
   かずとくんを先頭に一列に並んで、海の際を行く。小さな足跡と大きな足跡が並んだ。
   月の引力で波が押したり引いたりを繰り返す。その潮の満ち引きをかずとくんはときどき眺め、やはり太陽がまぶしくて目を細めた。顔をしわくちゃにした。もともとそんな、顔だけど。
   ポンパドウルさんがよく飲んでいるお酒の名前にブルドッグ、というのがある。かずとくんと同じ名前だった。
   ポンパドウルさんはこう言った。
   「ブルドッグを飲む時にグラスの縁に塩をつけたら、ソルティードッグになるんだ」
   かずとくんは海を歩く。そこから香る潮を全身に浴びながら。
   そう、波打ち際で、かずとくんは体に塩をつけ、その瞬間にソルティードッグになった。
   低く沈んだ太陽が雲を下側から照らして、空を紅く染めていく。夕暮れの中、かずとくんは、しょっぱい奴−−−ソルティードッグ−−−になった。
   秋の風が枯れ果てた葉を一枚一枚、丁寧に落として行く。
   あるいは、拾っていく。
   それが、僕の前で舞った。
   ポンパドウルさんが見せてくれた紅茶の葉っぱみたいに。
   そればかりか、紅茶色に焼けた空のおかげで、僕はまるで本当に紅茶の中にいるように思えた。
   ダージリンの空と、歩くソルティードッグ。
   ここにあるのは、ただ、それだけ。
   その紅茶の中に、静夏がいた。
   目線の先にある太陽と同じように、海に足を浸していた。
   「どうして、泣いているの?」
   ここは現実と夢の境界線なんだね。
   そう言った。
   「私は、どっちに帰ればいいの?」


   たまには、現実から離れてみたかった。それだけなんだ。
   同級生たちが、少しずつ社会に溶解していく。僕たちは反対に析出していくけれど、どうか、笑わないで。
   「静夏」
   「何?」
   だいちって呼んでおくれ。
   ありったけの大きな声で僕の名前を叫んで、その存在をここに示してほしい。
   「一緒に帰ろう」
   静夏はそう言った。
   どっちの世界に、なんてことは確認しなかった。
   わかっているのは、二人とも同じ方向に歩き始めたということ。
   かずとくんも歩いた。
   海に近づくと、その都度ソルティードッグになりながら。
   静夏の手をぎゅっと握って、僕は歩いた。
   恋とか、しながら。
   恋とか、しながら。


   静夏と一緒に畑の芋を掘っていたら、静夏を呼ぶ声がした。静夏のお母さんだ。
   「まさか、家出をしてきたの?」
   お母さんは頷いた。
   静夏が家を出てから、もう二週間くらい経っているが、お父さん以外の家族がそろって家出をした。そしてみんな集まった。
   それぞれ別の部屋に泊まって、別々の生活を送りながらこれから過ごしていく。
   ここは家出人が集まるホテル。
   宿泊費はタダ。


   明日あたり、静夏のお父さんが家出をしそうな気がしている。