ひとな様は耳が聞こえない。
いつもお仕事がお休みの日に、店に来られるお客様。愛犬のパグとご一緒に、コーヒーを飲みにいらっしゃる。
恐縮ながら、当店はペット同伴でのご来店をお断りしているので、ひとな様は入口にパグをつないで入られる。その間、パグはおとなしく待っていたり、眠っていたり、時に穴を掘っていたり。ひとな様にとってパグはなくてはならない犬だから、外出なさる時はいつもお連れになっているらしい。パグはひとな様にとって聴導犬の働きをする。ひとな様のパグは頭がたいへんよろしく、後ろから来た車や自転車をよけてあげられる。
ひとな様は当店、初のお客様。私は半年前、県道沿いに「ボンゴレ・ロッソ」をオープンさせた。イタリアンレストラン、トラットリア。オープンスタッフはわずかしかいなかった。記念すべきオープンの日、ひとな様は開店時刻の少しだけ前に、ご来店なさった。
「いらっしゃいませ。お一人様で」
それには何も反応せずにひとな様は私に紙を渡された。
『パグをつないでもいいですか?』
少し困惑した私にひとな様は、自分は口がきけないことを教えてくださった。私はひとな様をお通しする。初のお客様を、お店の奥の席にお通しする。
『いらっしゃいませ。ボンゴレ・ロッソへようこそお越し下さいました』
そう書いた紙をお渡しした。当店初めてのお客様への私の言葉は、今までで一番小さな声になった。
それ以来、ひとな様は度々ご来店してくださるようになり、今ではすっかり常連のお得意様。私はひとな様が来られる日と、時間帯がわかるようにまでなった。火曜日の午前中。ひとな様のお仕事がお休みの日。もうオーダーはとらなくてもわかる。
ブルーマウンテン。
酸味と苦味の調和が絶妙にとれた品。ひとな様はそれを半分ブラックで飲んで、残りにミルクを半分入れて飲むという、これまた通な飲み方をされる。うちではイタリア料理のほか、コーヒーに非常に力を入れている。コーヒーメーカーではなくてドリップで丁寧にたてる。時間はかかってしまうけれど、お客様を、とりわけひとな様を満足させられる自信が、私にはある。平日の午前中は忙しくないことがわりと多いので、そんな事情を知ってか、決まってこの時間にやって来られるひとな様。「ボンゴレ・ロッソ」で過ごされる、ブルーマウンテンの休日。
ひとな様はいつも、お一人様。ひとな様に限らず、最近この「お一人様」が女性に増えつつあるように思える。これが、とても様になる。男女雇用機会均等法ができて以来、女性も仕事に恋に遊びにと随分忙しい。そんな人達が「お一人様」で疲れを癒しにやって来られる。これも女性だからこそ、絵になる。大人の余裕が見え隠れする。反対に、仕事に疲れた男性が一人でいては背中が寂しいだけなのである。私は複数で入って来られるお客様よりも、そういった「お一人様」をとても大事にする。退屈しないように、雑誌をお持ちしたり、時々は話し掛けてみたりする。
ひとな様と私の会話は、専ら手話でやりとり。少し覚えた。簡単な意思の疎通ならできる。ひとな様も喜んで教えてくださった。平日でも、ランチになるとお客様が増えて忙しくなる。するとひとな様は、私に向かってこんなことを言う。
《賑やかですね》
賑やかですね。
本当に賑やかかどうか、ひとな様にはわからないはずなのに、まるで耳からその情報を得たようにおっしゃる。ひとな様はそう感じるのだと、言われた。なんとなくそんな音が感じられると。突然、雨が振り出してもひとな様はそれを感じ取る。雨が降っている音の、音がする。きっとこんなふうに。
音の世界には単位がある。dB。デシベル。
靴箱から取り出した靴を玄関に置く時のあのザッという音にも、木の椅子に座った時に軋むギッという音にも、傘を閉じる時のカチッという音にも、量を表す単位がある。
ひとな様は、それらをお持ちでない。ひとな様のいる、音のない世界。ひとな様の世界にはデシベルがない。
他の店に比べると、うちは確かに賑やかな店。おかげさまで、ランチにもなれば満席になって待ちができる。そろそろ従業員を増やそうかなんてことまで考えられるようになった。そんな中、たとえ周りがどんなに忙しくても、ひとな様の席だけは静かに佇んでいた。今日も、ひとな様はいつものようにブルーマウンテンの休日を過ごされる。私はコーヒーのオーダーを取ると、まずソーサーにスプーンを乗せ、ミルクを添えてテーブルにお持ちする。あとから、お持ちしたコーヒーをこの上に置くようにしている。
《ブルーマウンテンになります》
手話でそう伝える。ブルーマウンテン。固有名詞は一文字ずつ指で表すしかないが、私はいつも《青です》と伝える。まだまだ慣れていない。青は右手であごの骨を撫でるようにして表す。するとひとな様は、私の手話を少し直して下さってから、《ありがとう》とおっしゃる。手のひらを縦にしておがむような仕草で。私は深く頭を下げる。
ひとな様は、お鼻がたいへん効いていらっしゃる。飲む前に必ず、香りを嗅いで鼻で味わう。ブルーマウンテンが持つかぐわしい香りをひとつ残さず堪能することができる。ひとな様はブルーマウンテンを味わうのに、最もふさわしいお方。そしてなりより、背中の美しい女性だった。
夕方からバイトの男の子が入ることになった。
紹介しよう、成瀬くんだ。バイト面接で彼が店にきた時、私はこの男の子に見覚えがあった。以前、お客としてうちに来てくれたことのある子だった。成瀬くんはここで、店長の私が面接をしたまさにこの席で、女の子に告白をしたのだ。よく覚えている。彼はトラジャという銘柄のコーヒーを飲んで、彼女は確かカフェオレを飲んだはずだ。残念ながら、結果的にはふられてしまった成瀬くん。女の子にふられたお店で働こうなんて幾分か屈折しているようにも見えるが、彼が恋をする舞台にこの店を選んでくれたことが嬉しかった。男なら誰だって勝負に相応しい店をセレクトする。面接の時、成瀬くんは告白した時と同じくらい緊張していて、私も同じくらい緊張してしまった。何を聞いていいのやらわからない。本来なら何故この店で働きたいの?なんてことを聞けばいいのに、成瀬くんがふられたことを知っている手前、つい遠慮してしまう。結局、面接らしいことは何も聞かず、コーヒーが好きかとか、お酒が飲めるかなどあまり関係のないことを聞いて終わった。履歴書を見てわかったことだが、成瀬くんの地元は私の実家の目と鼻の先だった。ローカルな話題でただの世間話をして彼を採用することにした。
店長の立場でありながらこんなことを言うと無責任だが、なんとなく彼は上手くやっていけそうな気がした。
真新しい制服に袖を通し、「ボンゴレ・ロッソ」の店員になった成瀬くん。よろしく。これからモリモリ働いて欲しい。私は若い力に期待することにした。
私の、人を見る目は鋭い。
成瀬くんは類まれな才能を秘めているに違いない。現に、彼は私でもできないデザインカプチーノを軽々とやってのけた。マシンから抽出されたエスプレッソにココアパウダーをふりかけ、カップを傾ける。蒸気で泡立てたミルクを器用に行ったり来たりさせながら木の葉をカップに描いた成瀬くん。その見事さに私は呆気に取られる。基本的にコーヒーは私の担当だったのに、あっという間にその座を奪われた気分だった。ただし、ブルーマウンテンには触らせない。
成瀬くんは感心するほどの勢いで仕事を覚えた。席番号を覚え、メニューを覚え、水を出すタイミングや空いたお皿を下げることなどを頭に入れた。ひとつだけいけないのは、力が有り余っていること。成瀬くんが物理的に与える力にグラスや食器などがついていけない。わかりやすく言うと、よくお皿を割る。
ホールのサービスとして大切なことは、バランスの取れたオーダーを取ってくること。成瀬くんがこんなオーダーを取ってきた。シーフードサラダにペスカトーレ、白身魚の香草グリル。
「魚ばっかりじゃないか、何かを肉料理に変えてきなさい」
あくまでも、おすすめするように。お客様がそれでいいとおっしゃるなら、そうすればいい。他にもバターを使った料理ばかりを取ってきたこともある。早く気づくようになってくれるといい。
わがままなオーダー。カルボナーラのベーコンを抜いて欲しい、というお客様からの依頼があった。もともと素材の少ないカルボナーラからベーコンを除いてしまうと、玉ねぎしか入らないことになる。生クリームと卵、チーズが入ってはいるけれど何とも寂しいパスタになってしまう。
「代わりに何か他の素材をお入れ致しましょうか?」
私はそう尋ねたが、いらないらしい。成瀬くんは腑に落ちないようだった。ベーコンが嫌いなら、カルボナーラじゃなくて別のパスタにすればいいと言う成瀬くん。正直、私もそう思うがこれもお客様のオーダーである以上、従うほかないのだ。和風のパスタに粉チーズをかけるからくださいと言われることもよくある。
驚いたことに、本日のひとな様は「お一人様」ではなく「お二人様」だった。ひとな様は殿方をお連れになって、店にいらっしゃった。当然のことながらお二人は手話でお話をなさる。その殿方は私よりも滑らかな手つきで、私の知らない単語もご存知だった。私の入り込めない世界。
《青をください》
そう言ったひとな様。かしこまりました。
「ウインナーコーヒーを」
お連れの殿方は声に出してそう言われた。雲のようにホイップした生クリームを浮かべた甘いコーヒー。ウインナーコーヒーというのは音楽の都、オーストリアのウィーンが発祥の地。本場では「一頭立ての馬車」という意味の「アインシュペンナー」が正式。泡立てた生クリームをコーヒーに乗せてお持ちした。次に私はひとな様の「青」を入れるつもりでいた。ところが、私が殿方のコーヒーを作っている間に成瀬くんが勝手に「青」を入れて、勝手にひとな様にお出ししてしまった。
「勝手なことをするんじゃない」
私は慌てた。ひとな様は「青」を飲みにやって来られるお客様。普段の「青」と味が変わってしまう。
《今日の青は一段とおいしいですね》
おいしい。右手で頬を軽く叩いて、私に手話で伝えるひとな様。成瀬くんが入れたのに。成瀬くんが入れたから。私は何も言えなくなってしまった。ひとな様がお二人で過ごされるブルーマウンテンの休日は、いつもより穏やかで、いつもより時間がゆっくり流れた。
イタリア人のお客様が来店されたことで成瀬くんがいっぱいいっぱいになる。イタリアンレストランにイタリア人がきて困るような店ではないはずだ。
「僕、英語なんて話せないですよ」
「大丈夫。向こうも話せないから。あちらのお客様はイタリア語でしかお話しされ ないよ。成瀬くん、オーダーに行ってくるかい?」
たじろいで後ずさる成瀬くん。まだまだ若い。お得意様なので私は顔を知っているのだ。私はイタリア語で書かれたメニューをお持ちして代わりにオーダーを取った。ひとな様のいない日も当然のことながら、営業する「ボンゴレ・ロッソ」。ブルーマウンテンの休日はあっても、「ボンゴレ・ロッソ」に休日はない。
食事をされていたそのイタリア人のお客様が突然成瀬くんに話し掛けるというハプニングが起きた。もちろん、イタリア語で。成瀬くんは様々な単語でつながった長い文の中から「エスプレッソ」と「ドピオ」という単語だけをどうにか拾い上げる。ものすごく短い訳をした。
「とにかくエスプレッソが欲しいみたいです」
そう、イタリア人は食後にエスプレッソを飲む習慣がある。成瀬くんは俄然やる気になった。
「てことは、僕の出番ですよね」
エスプレッソをドピオで。ドピオ。二杯分。ダブルってこと。結局、成瀬くんの出番になって一番おいしいところを持っていかれた気分だった。
カフェとしての「ボンゴレ・ロッソ」は、ランチとは異なり静かで落ち着ける時。思わず仕事をサボってしまいたくなるような、安らぎをくれる。店内では洋楽を流す。英語なので何と言っているのかわからないが、選曲してくれた成瀬くんいわく、「口にするのはとっても恥ずかしい」らしい。
今日は成瀬くんが休みの日。デザインカプチーノが出せない日。
なんとなくバツが悪いが、今日は火曜日。ひとな様のブルーマウンテンの休日。私は心なしかホッとし、思う存分ひとな様のお相手をする。店先にパグがつないである日は、売上が伸びると言うジンクスがある。成瀬くんが言いだしたのだが、最近私も信じ始めた。パグがいるということは、ひとな様がいらしているということ。大変ありがたいことである。つじつまの合わないことを言うが、パグがいるときくらいゆっくりと接客したい。せっかくひとな様がおいでになっているのだから。本当のことを言うと、成瀬くんが今日いないのは私の陰謀によるもの。店長の立場から、私は勤務表を自由に操作できる。
いつものように私はひとな様に「青」をお出しした。今日は本をお読みになられていた。お店に置いている本はファッション雑誌やイタリア料理、コーヒーの本。悲しいことに、時々なくなることがあるが大事にして下さる方もいる。ひとな様が読み終わる頃に、新しい本を用意しておこう。
《お酒は飲まれるのですか?》
するとひとな様はゆっくりと頷かれる。私はコーヒーの座を成瀬くんに譲ろうと内心考えていた。ひきずりおろされる前に。お酒なら、まだ私に分がある。それにしても、なんて大人気ないことをするのだろうか。
《一度、夜にいらしてください、何かお作りしますよ》
ひとな様がブルーマウンテンに満たされる。一度しか使っていないのに、すっかり香りをつけてしまったティースプーンも、ピッチャーの底に残ったミルクでさえもが、ひとな様にふさわしく見えた。
《今日は、成瀬くんはいないのですか?》
ええ。休みにしておきました。余計なことをするから。
成瀬くんのエスプレッソを飲みにくるお客様が数人いらっしゃることを私は知っている。中には「勤務日を教えて下さい」と言われる方までいて、私は複雑な心境になる。ますますカクテルに心が傾く。ひとな様のお好きなブルスケッタをお出しして私は仕事に戻る。ガーリックトーストの上にトマトとバジルを乗せて焼いた、ちょっとした前菜。成瀬くんもいないことだし、今日はゆっくりしていいはず。
私は成瀬くんの実力を買っている。強がりではなくて、本当に。彼には、本格的にドリンクを担当させようと思っている。お酒以外のドリンクを。というより、ひとな様のオーダー以外のドリンクを。彼の閉めたドリンクやビンの蓋が、私の力では開けられないくらいに強く閉まっていた。それをいとも簡単に開けてしまう成瀬くん。年の差がこんなところで出たのか、いよいよ私がドリンク場から引退する時期なのか。いい青年が店に来たものだ。私の目に狂いはなかった。
時折、不覚にも思い出してしまう女性がいる。こう言うのだからもちろん妻ではない。何十年も前の話だ。
紅茶と観葉植物が好きな人だった。紅茶の中でも、とりわけアールグレイが好きで、私は彼女によく話を聞いた。彼女はアールグレイという銘柄について事細かに教えてくれた。アールグレイはブレンドした紅茶に柑橘系のベルガモットで香りづけをした紅茶であること。中国に赴任していた外交員がこの紅茶をグレイ伯爵に献上したことからこの名前がついたこと。アールとは伯爵という意味であること。
彼女は詳しかった。紅茶を入れる際、お湯を注いだ後に茶っ葉がポットの中で浮いたり沈んだりするのが見ていて面白いと言う。宇宙人みたいだから。乾燥した葉っぱのくせに生き生きしていると言い、その割にはストレーナーで濾した後はずいぶんぐったりしている。きっと体の成分を出しきってしまうのだ、と不思議なことを言った。その人にひとな様はよく似ていらっしゃる。誤解して欲しくないが、私は妻を愛している。
ひとな様はその日、一向に帰ろうとしなかった。ランチに入っても、昼が終わっても。一度、昼下がりにどこかにお出かけになったが、夕方には戻られた。パグを散歩に連れて行かれたらしい。今日のひとな様はどこか元気がない。ひとな様はご夕食を取られた。その後で席を移られ、カウンターに座られる。私は約束どおりひとな様にお酒をお出しすることにした。
《何かお望みがあれば》
ひとな様の前にコースターをだす。真っ白の、紙製のコースター。バックからペンを出されたひとな様はそれに小さく文字を書かれた。少し遠慮がちに、とても細い文字で。
声を聞かせて。
ブルームーンというカクテルをご存知だろうか。ドライジンにスミレのリキュールとレモンジュースで作るショートカクテル。スミレの持つ花の香りに、レモンの酸味が効いた味。世界に三百種もあるというスミレの中からリキュールに生まれ変われるのは、スィートバイオレットの花びら。甘やかな香りに密かに妖艶な淡い紫。ラベンダーブルーのカクテル。
ひとな様は、私に声を聞かせて欲しいとおっしゃった。耳の聞こえないひとな様が。無理なことを言われる。私はもういい年なので、声はしわがれてしまっていた。とてもひとな様にお聞かせできるようなものではありません。私はひとな様が出されたコースターの上にブルームーンを置く。妖しげな美しさを見せるブルームーンを差し出す。
《・・・それは、できない相談ですよ》
そうですよね、とひとな様。
《このカクテルは?》
《青、ですよ》
いつもと同じように。いつものブルーマウンテンのように。ブルームーンには二つの意味がある。ひとつは青い月。もうひとつは、できない相談。「青」を飲み終えた後でひとな様は「私・・・」と自分を指差した。そして右手で小指を、左手で親指をだし、その二つをゆっくりと近づけていった。それを見て私は手話を返す。少し、間を置いて。
《おめでとうございます》
夏はクーラー代が経営を圧迫する。加えて成瀬くんが割ったお皿や、グラスの数々も。今ではすっかり一人前になった成瀬くん。デザートの仕上げだってこなしてしまう。
私、結婚するの。そう手話で伝えたひとな様。あれ以来、ひとな様はもうお店にお見えにならなくなってしまった。旦那様と一緒に遠く県外にいかれたらしい。時折、不覚にも私はひとな様を思い出してしまう。あの美しい背中とコーヒーを飲む仕草を。お元気でいらっしゃるだろうか。
くどいようだが誤解しないでいただきたい。私は妻を愛している。